博士論文について
博士論文として提出したものを、元原稿として、本を作ると考えているドクターの方々は多い。一般人ではうかがい知れない学問の中で培われた優れた論文であると思う。
博士論文として提出するには、提出する大学研究機関の担当教官から研究の成果を博士論文として提出したらどうか? という打診があるという。もしくは、内々に博士論文として提出してよいか? 問い合わせをし、了解が得られた場合、提出するそうだ。
大学院後期課程の院生と教授は、何年も一緒に勉強しているのだから、どのような研究をしているのか? すでに共通理解があるので、博士論文を提出する許可をもらえれば、論文審査で不合格になるということは、基本的にはないという。
私たちのような学術出版社に持ち込まれる博士論文はそういったものがおおい。
最近では、○○の研究などというタイトルでは、本は売れないので、なるべく内容耳合った売れ筋の書名を付けたりする。どちらのしても大して儲かる者でもないので、採算がとれるように、公的・私的な出版費の助成をお願いするか、もしくは、出来上がった本を一定部数買い上げてもらって、採算をとれるようにする。これも、現在ではあるていど著者と出版者の共通認識となっている。
さて、そんな原稿を2点、現在確認しているのだが、
文意が分からなかったり、入力ミスがあったりするものがおおい。かつてその論文の肝の論文中の一番大事な表に、明かな、誰が見ても疑問に感じる大きなミスが、そのままだったこともある。私学の雄と自負している大学の博士論文で、その大学の専門の大先生がそんなことに気がつかない筈はないと思えるようなことではあるが、間違ったまま、私の元で、単行本かすることになり、その編集過程で見つけたものだである。
大学の教官と博論執筆者には提出した論文を読む以前にその研究に関して相互理解があるのだから、研究自体を評価した博士号を出すのだろう。ところが本屋はそうはいかない。はやり隅から隅まで間違いのないものを目指して世の中に送り出してあげる、そういう気持ちで読む。何故かと言えば、誤植の多い本を作ることは、その後の出版社の評価を下げ、出版活動の再生が難しくなるからだ。ある意味で言えば、原稿を読み込むことは、飯の種として読んでいるのだ。
逆に言えば、そうであるから、本にする意味があるのだろう。
だから、博論などをPDFにして公開するということは、恥をそのまま公開することにもなってしまうかもしれない。
学会誌のオープンテキスト化なども、編集能力の高い人材が担当しないと同様の恐れが生じるだろう。
こういったことは、電子書籍の個人発売なども同様なのだとおもう。
編集者の仕事はつきないと、信じよう。
【メモ】漢数字の統一、ルビの付き方など、めちゃくちゃというか、気にしていないことなどは当たり前で目立つ。
日本のいちばん長い日をみた
夏休み 8/11
朝、4時前に起床してしまう。
録画「ケンミンショー」を見ながら、机辺の片付け
5時過ぎに、ジョギング、いつものコース。今朝は、胸が苦しかったが、何とかごまかして完走。昨晩、ウォーキングをした為か? 最近出来たストレッチ広場は、老人がそこそこいて、自由に使えなかった。もう少し早い時間の方がいいようだ。
その後、シャワー。
佐藤秀明にメール返信。
朝食作成、ジャガイモレタスサラダ+オクラ入り
ハムエッグとトースト。珈琲は事前に4杯分入れる。上高地行き前日、ポットの中を良く洗って、渇かした。昨日、珈琲を飲むとカップに糟が入っていた。そのことを家内にいうと、粉をこぼすからだと言われたが、何のことはない。渇いたから今迄こびりついていた糟が、はがれたのだろう。今朝、ポットを洗うと大量の糟が出て、ポットの中が、新品のように、輝いていた。
朝食の食器の片付けもした。
これから、又、真珠夫人を読むぞ。
夏休み
8月6日(木)から夏休みをもらった。翌7日から、信州松本・白骨温泉に二泊し、三日目に上高地を訪ね、帰宅。本日、8月7日となる。
6日は、映画(ターミネーター 新起動/ジェニシス)を見る。なかなか面白かったが、何故、ジョン・コナーがスカイネット側についたのか? その理由がよく分からなかったので、調べてみるた。スカイネットによって改造されてしまったというだけで、詳しい理由は分からないままだ。そして、この映画の評価が高くないことを知る。
イオンシネマで1100円で見られたので、とても満足。
7日は、9時に出発。松本まで。1時過ぎ着か? 昼飯は松本の蕎麦屋吉邦。駐車場のオジサンに教えて貰った。なかなかリーズナブルで上手かった。
宿泊は、界・松本。家内によると一番リーズナブルな部屋ということだったが、悪くない。風呂も料理も良かった。
翌日は、松本市内のたかぎで蕎麦打ち体験
http://e-takagi.net/?page_id=65
自分で打つより、打ってもらって食べるだけの方がいいのは間違いないが、ちょっと修行してみようかという気持ちがないわけではない。
その後、そばふれあい館に行く。ナビにセットして車を走らせたが、非常にわかりにくかった。日穀製粉として検索した方がいいかと思う。
その後、家内の高校時代の友人で松本在住の一家と落ち合い、白骨温泉近くの川原で遊ぶ。護岸工事をしていない小川を見るのは初めてかも知れない。唱歌[春の小川」を思い出す。水が冷たい。
その後、白骨温泉斎藤旅館へ
もちろん、悪いはずはないが、昔行きたいとおもっていた白骨温泉とは若干面持ちがことなっていたのが残念。
翌日、上高地にいくのだが、大学2年の学外体育で横尾キャンプ場をベースきゃん部として、槍ケ岳に登った。翌日は穂高の予定だったが、その夜から台風の影響が出始め、翌朝、大学の引率者の判断で、全て撤去し重装備で下山、途中、風雨激しくなり、漸く上高地までたどり着いたが、風雨の激しさが募り、大学の迎えのバスが、釜トンネルまでしか来られないということになり、そのまま釜トンネルまで下った経験を思い出す。途中、道路には雨水が激しく流れ危険だったのだろうか? 山の中を歩いて、下った記憶がある。松本に着いたのは、夕方。夜行の列車に乗るまで、松本で馬刺しでビールを飲んだ記憶がある。
まぁ、それ以来だったわけだ。しかし、変わったなぁ。ある意味では心身共に健康で訓練して望んだもののみが来たところなのに、今はすっかり観光地だ。そして自分もその一人であるのに間違いはない。
昼過ぎ、帰途につく。途中渋滞七時間半。ちょっとしんどい。
ご無沙汰 というか 忘れてました
1月の三が日を過ぎた頃、インフルエンザにかかった。確か四日、そして、五日の仕事始めと六日、会社を休んだのだった。
その週末に、歯が痛くなって、歯医者に行く。いろいろあったが、本日現在、歯槽膿漏による痛みといういことで、引き続いている。
会社の仕事は、一月中、ホントウに老骨に鞭を打って、という形容そのままに、働いたので、何とか先が見えてきた。
ご無沙汰
家呑み・早寝、深夜起き。
仕方が無いので、会社では出来ない仕事をすることにして、今している。
「メモ:画工、筆耕、彫り師のそれぞれに報酬が支払われていた。文政四年の時点で画料は一枚五百文くらい、彫刻料は一枚一貫二百文だという。
ただし画料は板元によって異なっていた可能性もある。」
という一文を見つけた。それはそうだろうと思うのだが、この一枚「一貫二百文」というのは、今のお金として、幾らぐらいなのか? この金額は、今の製版代とどれくらい違うのだろうか?