吃驚

著者の原稿をインデザインで組み付けていたら、なんかおかしいなぁ、字間が空いているようだと思ってよくよく見ると、なんと言うことはない、半角のスペースが入っていた。

 

どういう風に入力すれば、半角スペースが入るのだろう。

 

さて、後ほど、全てのファイルを立ち上げて、置換機能の使って取り除くことにしなくては。

 

電子書籍化

近松浄瑠璃の作劇法』を精興社に依頼して、電子書籍化する仕事を担当した。

いわゆるEpubのリフロー型という形式の電子書籍にした。

Twitterなどには、Kindle化された、とかいわれているを初めて知る。

すごいなぁ、Kindle。でも、担当者としては、元データを、iphoneに入れたりしている。

早く、nexus7が修理からかえってくるのをまっている。

ただ、ビューアとしては、Kindleが優れていると思う。

iphoneibooksや、GoogleのGooglePlayの電子書籍アプリも試してみたが、Kindleの方がいいようだ。

最悪なのは、PCで点検するための、Kindleビューア。これはKindleの系統なのだろうが、検索も出来ない。ただ、仕事上は、会社のPCで点検するのが、一般的だろうから、このKindleビューアをメインに仕事をした。

そこで、いくつかの精興社の間違いも見つけた。それだけでも一生懸命仕事をしたことが分かるというものだ。植村八潮の『

 

 

も事前に読んでいたけど、事前に読んでもよく分からない。作った後に読んだ方が分かりやすかった。私の頭の悪い所以であるが、多くの製作マニュアルはそんな者だろう。頭の悪い人間にとっては。

 

ただ、先にも記したが、従来編集者と印刷所は、読者によって読まれるのと同じかたちのものをみていた。つまり活版時代のゲラ刷りなどは、紙質は異なるものの、ゲラのイメージはそのまま本のイメージになっている。(ただ、それは一頁単位の場合ということを注記しておこう。2頁文がゲラ刷り一枚で出てくるのだが、それは、本の見開きとは異なっているのが普通であった。ということを書いておかないと、突っ込まれる可能性がある)

それが、書記の電算写植では、ほぼ同じになった。基本的に校正出力機と版下出力機がことなると、機械の違いによって、微妙にフォントが違って見えた。などの違いがあるが、それ以上に、電子書籍を校正として点検するのと、読者が見るのとでは、大きな違いがあるような気がする。

そのうち、どうにかなるだろうけど、少なくてもこれからリフロー型の電子書籍を作る場合には、このことは覚えておいた方がよいろ思う。

ナンバリング

原稿にナンバリングを押している。インクを貯めておくフェルト部分が、ダイアル数字の圧力で硬くなっていたため、インクが数字に載らず、明確に印字出来なくなっていた。

アルバイトにナンバリングをさせたのだが、数字がはっきり見えないナンバリングなんて意味がないので、振り直すことにした。また、いつものように今時の若い人間はと思ったが、今度ちゃんと教えてあげよう。

その際フェルト部分を入れ替えるのではなく、裏表に差し替えてみた。これで上手くいくだろう。

 

しかし、ナンバリングの作業をするのは、私だけになってしまったかもしれない。

ほとんど、ワープロ原稿なので、プリントアウトする際に、頁数がついてくるもんな。

 

 

もらいもの

最近は招待券が豊富だ。
11月3日は国立劇場で歌舞伎を観た。
吉右衛門の神霊矢口渡。殆ど寝ていたが、面白かった。
身替わりに子供を殺すとか、若い娘が着物や髪を乱して、太鼓を打つ場面だとかは、
この作品生まれる一世代前の名作を、取り込んでいると思われる。
このことは、代作問題とどう絡めて考えていくか?
芝居というメディアの特性と考えることも出来る。
 
 
さて、昨晩演芸場に行ってきました。
良かったですよ。
代演で林家正雀が出て、紀州という短い話だったので、あれっておもっていたら、奴さん踊りを披露してくれてとてもよかった。
三遊亭金馬がトリで、芝浜をやったのだが、かなりよかった。
小三治がやると新劇っぽい芝浜なんだけど、新派っぽい芝浜で、それはそれでよかった。
まぁ、最後のサゲはとくに取り立てていうほどではないけれど、すごくいい気分でかえることができました。
金馬さんをみることができたのもいい経験だったと思います。
 
本日は午後から、寅さんサミットへ 行く予定

 

社内でこれから出す本のチラシの文案に関して、打合をした。

 

浄瑠璃長唄と記したところに、チャチャがはいった。

浄瑠璃の他に、常磐津や清元があるだろう。と、いう。

浄瑠璃には、義太夫常磐津・清元などがあるので、それを総称しているのだが、分からない人間には分からない。

 

浄瑠璃長唄を対比させているのだが、それが分からない人間にはわからないのだ。

つまり、多くの人は、宣伝文で勉強させてもらおうなどと、思っているのではなく、宣伝文は分かるように書かなくてはならない、というのが主旨なのである。

 

自分が詳しい分野であるならば、まったくこのようなことはいわないのだが、

こまったものだ。

 

休日

三時半に目が覚めた。もう一度寝ようと思ったが、寝付かれない感じがして、4時過ぎに起きた。

アイロンがけがたまっていたので、録りだめた映画「ゼロの焦点」を見ながらアイロンをかけた。何となく松本清張を読みたくなった。

朝飯を食べたあと、Tippnessにいって、エアロウォーク30分。平泳ぎ40分。サウナに入って、帰宅。

東への手紙 その1

東の論文は、文章が悪いと思っていた。

 

しかし、文章が悪いのではなく、説明する言葉がないのではない? と思うようになってきた。

まとめを読んで

 

例えば、浮雲のような戦後の長寿演劇では、どうなのだろうか? 改作とはいえないまでも何らかの変化はあるのではないか? たとえば森光子のでんぐり返しの廻る回数が減ったとか、増えたとか。晩年はでんぐり返ししないことが報道された